日本人なら誰もが耳にした名曲を叩いた男
【ドラム界の重鎮 田中清司 x 昭和歌謡マニア 半田健人】昭和歌謡グルーヴ対談
【ドラム界の重鎮 田中清司 x 昭和歌謡マニア 半田健人】昭和歌謡グルーヴ対談
2018/11/12
田中:ジャッキーさんが「じゃあ終わったからコーヒーでも飲もう」って喫茶店行ったんだけど、第一声が「あんなんじゃだめだよ!」と。
半田:褒められると思っていたのに?
田中:「いやぁ、あれじゃだめだ!ドラムはリズムが大切だ!リズムをしっかり叩かなかったらだめだよ!」ってそこでガーンと言われたのよ。それがもうずっと今も生きてるの。
半田:でも確かに田中清司ドラムスタイルっていうのはオカズは控え目でビートが中心ですよね。今日に至るまでね。
田中:そう、だからそれが良かったんだろうね。あの時褒められてたら違う方向に行ってたかもしれない。
半田:清司さんの長いレコーディング人生の中で、記憶してる限りで一番最初のレコーディングっていつ、何の曲ですか?
田中:「アオイスタジオ」ってところにCMの仕事で行ったのが記憶してる限り最初の録音かも知れない。ベースは寺川正興さんで。
半田:緊張しますよね。
田中:30秒の軽い8ビートなんだけど、もう力入っちゃってね。それが22〜23歳の時かな。
半田:1971年ごろですかね。田中清司初期トラックですね。で、いよいよ歌謡曲のレコーディングの世界に入っていくわけですが、僕が調べた限り清司さんのタイコでの初の大ヒット曲っていうと山本リンダさんの「どうにもとまらない」なんですよ。あれが72年に出てるんですね。73年がチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」で。72年は「飛行館スタジオ」で録ってます。
田中:あぁ「飛行館スタジオ」新橋のね。外が見えちゃうエレベーターでね。
半田:「どうにもとまらない」は都倉俊一先生の作編曲なんですけど、あの曲って実はリンダさんがミノルフォンレコード(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)にいた頃、これまでの路線を180度覆すようなモノを阿久悠先生と都倉先生に「お任せするのでカラオケ録っちゃってください。」ということで受けた仕事らしいんですよ。都倉先生曰く。オケなんかもこっちで勝手に作っちゃうって勢いで録られたものらしいんです。当時のフォーリズムのバンドなんかはドラム譜はお任せ!って感じだったらしいんですが、実際はドラム譜に何か書いてありました?
田中:何かは書いてあったけども、あの曲ってラテンぽい曲じゃない。
半田:ラテンですね。
田中:ラテンパーカッッションの方々が2〜3人来て、俺はもうこの人たちについて行けばいいんだなみたいな感じだったね。俺の先輩たちだからこの人たちについて行けばいいんだなって。
TEAC加茂:それじゃここで「どうにもとまらない」を聴いてみてください。
【試聴した曲について】
山本リンダ「どうにもとまらない」を試聴
曲名 どうにもとまらない
音源素材:iPhone(iTunes)
再生機材 iPhone内の音源をBluetoothで送信しUD-505、AI-503、S-300HRで再生
田中:へぇ~ちゃんと叩いてるんだね!(笑)内心びびってたの。
半田:この時の都倉先生はどういうディレクションだったんですか。
田中:都倉さんもまだ出たての新人で「へぇ~こういう感覚の人が出てきたんだ!」って衝撃的だったね。俺達と同年代だったし。
半田:初期の都倉作品って清司さんが指名されることが多かったと思うんですけど、そのあたりも同世代で使い易かったってところがあるんですかね。
田中:そうだったのかも知れないね。
半田:この「どうにもとまらない」からスタジオ業が増えていったと思うんですが、どのようなペースだったんですか。気が付けば1日何本も入っていたのか、それともじわじわ増えていったのか。
田中:じわじわかも知れないね。最初のうちは稲垣次郎とソウルメディアでずっとやってて、TV番組でゲスト歌手のバックをやる仕事が多かったね。それがまた凄く譜面の勉強になったんだよね。歌手の人が「これお願いします」ってその日に渡すの。
半田:マネージャーさんが持ってくるんですよね。
田中:そんなに譜面も読めないんだけど必死になって。休憩時間はみんなお茶飲みに行っちゃうんだけど飲んでる時間もないくらい譜面をじぃーっと見てね。とにかく頑張ってやってたね。ベースのチーボー(武部秀明)も一緒でね。チーボーもその日終わりで「今度いつ会う?」「3日後かな」「あっ俺も一緒だ!」みたいなとこから始まったね。
半田:で、気が付けば毎日行動を共にするみたいな感じですか?
田中:ギターは水谷(公生)くん、ベースはチーボー、ドラムは俺って言うね。ピアノはハネケン(羽田健太郎)や栗林(稔)さんね。ハネケンも僕とほぼ同期でばぁーっと出てきてね。
半田:そうかぁ!その辺なんですね。
田中:その頃からその4人ぐらいがリズム隊でスタジオに入ることがだんだん増えていったよね。
半田:僕もね、自分が歌謡曲のバッキングを研究するようになって、そういう目線で聴くようになってから気が付いたんですが「一人がいくら何でもこんなにこなせないでしょ!」って思うわけですよ。当時はベーススタイル、ドラムスタイルによって色々な方たちがプレイしていたと。ところが一人で演奏していたという事実が出てきたときに僕は驚愕でしたね。ベースでいえば江藤勲さんみたいな音を出す人がいっぱいいたんだと思ってたんですよ。でもそれが違ってて。全部一人でやってたっていうね。だからその仕事量たるや想像を絶するものがあると。清司さんは当時寝てました?
田中:寝る時間はあったけど、短かったよね。朝10時から始まって3か所、4か所スタジオ全部回って、帰ってくると夜中の1時とかね。
半田:楽器によって苦楽ありますがドラムは大変ですよね。
田中:ドラムはなんだかんだセッティングに50分ぐらいかかるからね。着いてからセッティングしてチューニングして、それからエンジニアが来てサウンドチェックをね。これを他の皆さんが来る前に済ませなきゃいけない。
半田:今、丁度エンジニアの話が出ましたけど、今はドラムを録音するとなるとベードラだのスネアだの各一個一個マイクを立てるのが常識ですけど、清司さんがレコーディングを始めた頃はマイクは何本ぐらい立ってました?
田中:それでもバスドラ、スネア、タム、上にも2本立ってたかな。
半田:結構、当時から立ててたんですね。
田中:でも上の先輩のミュージシャンたちはレコーディングの時にヘッドホンをしない時代も経験してるわけ。俺たちはもうヘッドホンがないとわかんないわけよ。たまたまスタジオでヘッドホンが無くてエンジニアに「ヘッドホンが無いんですけど」っていうと先輩のミュージシャンが「田中君ね!昔はヘッドホンなんてなかったんだよ!」って怒られたりしてね(笑)。
半田:そんなスタジオミュージシャンの仕事がうなぎのぼりになって来たときに「井上尭之バンド」への加入があるわけですけれどもその経緯は?
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