あのビートたけし「浅草キッド」はカセットMTRから生まれた!
多重録音の歴史と共に歩んだミュージシャン「グレート義太夫」インタビュー
多重録音の歴史と共に歩んだミュージシャン「グレート義太夫」インタビュー
2017/10/06
ティアック株式会社の加茂氏より「ビートたけしさんの『浅草キッド』って、義太夫さんがうちのカセットMTRで作ったらしいんですよ!」と興奮気味に取材のオファーをいただいた。私の中の「グレート義太夫」というと、ビートたけしのバックでフェルナンデスの「ZO-3」を弾いている"ギターが弾けるお笑い芸人さん"という認識であったが、そこで語られる内容は、ラジカセ2台の録音から始まり、カセットMTR、DTM、DAWへとまさに多重録音の歴史を地で行く宅録のプロであり、これまであまり語られることの無かったグレート義太夫のミュージシャンとしての側面だった。
取材:斎藤一幸(編集部) 協力:加茂尚広(ティアック株式会社)
──音楽を始めたきっかけからお聞きしたいのですが、最初にスタートした楽器は何だったのでしょう。
最初はねぇ、小学校3年生ぐらいの時におじさんがいて、遊び人の。まぁお父ちゃんの弟さんなんですけど。よく遊びに来てて、ある日急にギター持ってきて「これ、やるよ」って。
──フォークギターですか?
よくわかんなかったんですけど、張ってある弦はスチール弦だったんですよ。ただヘッドは明らかに違うんですよ。無理やり張ったみたいな。それをよくわからずにポロポロ鳴らしてたんですよ。もちろんコードとか知らないんで、テレビから聴こえてくるような音を単音で拾ってたんですね。
それで中学になって仲間ができるじゃないですか。音楽好きの。そいつと平凡や明星の付録の歌本とか見ながら、後ろに付いてたコード表でコードを勉強しましたね。で、そいつのお兄さんが"シカゴ"が好きで。そいつの家に遊びに行った時に「すんげぇLPあるんだよ」って聴いたら一発で好きになっちゃって。それで中学1年からテリー・キャスが死ぬまで(1978年1月23日)洋楽ってシカゴしか聴かなかったんですよ。
──ライブにも行かれたんですか?
中学2年の時、73年ですね。シカゴの3回目の来日の時に武道館に観に行ったんですよ。「やっぱりロックはアメリカだよね!」ってどこで聞いたんだかわかんないこと言って(笑)。やっぱりアメリカのロックって見た目汚い人が平気でやってるじゃないですか。"ZZ Top"とか観てると安心するんですよ(笑)。
で、「ロックはアメリカだぜ!」って意気込んで始まったら、トップが"マジカル・ミステリー・ツアー"だったんですよ(笑)。倒れましたよ。
──バンドはいつ頃からやられたんですか。
高校行ってからですね。高校入ったらギター部があったんですけど、まだエレキギターは禁止なんですよ。なんでそこでアコギでアリスとか泉谷さんとかやりつつ、そのメンバーと学校外でバンドを組み始めるんですよ。で、なぜか僕そこでドラムやらされるんですね。今までやったこともないのに、見よう見まねで。
──コピーものですか?
ビートルズ、ディープパープル、ツェッペリン辺りですかね。日本だと、チューリップとか。
──ずっとドラムで?
そうですね。学校外ではドラム、学校ではギターですね。で、その頃に並行して"ツービート"が好きになるんですよ。談志師匠がやってた"やじうま寄席"って番組があってそこに「今日おまえら凄いの連れてきたから」ってツービートが出てきたんですね。でその時のネタが"うんこ"で(以下うんこネタが続く)
もうそれ聞いて好きになっちゃって。以降音楽とツービートを追っかけ始めるんですよ。
──そのままたけしさんのとこへ行かれたんですか。
いえいえ、もっとずっと後です。そのあと大学に入ってやっと電気楽器に出会うわけですよ。亜細亜大学ってとこに入るんですけど、最初のオリエンテーションで、「うちは電気楽器やってるよ!」って誘われたのが"世界民謡研究会"だったんですよ(笑)。さすがにその名前で入るのやだなって思ったんですけど、英語にすれば"ワールド・フォークソング・クラブ"なんで、昔はPPMとかそういうのずっとやってて今は電気楽器メインでやってると。で、入るわけなんですけど、これが信じられないくらい厳しいクラブで。
──体育会系の文化部ですね。
月〜土の6日フルにあって、そのうちの2日が"楽典"の授業なんですよ。そこでちゃんと点とらないと実技やらしてもらえないんですよ。この実技がまた大変で、練習用のスティック買わされて、メトロノームのねじいっぱいまで巻いて、それが終わるまで16ビートずっと叩き続けるとか。ギターのやつはフォークギターでずっとFを8ビートで弾き続けるとか。
──吹奏楽の世界ですね。
でしょ。4月に120人入って、夏休みには14人しかいなかったですね。ほんとにやりたいやつとか、うまいやつはどんどん辞めてって、我慢強いやつだけが残りましたね(笑)。
そこでやっとバンド組ませてもらいましたね。
──その時はドラムだったんですか。
そうです。1個上の先輩から死ぬほど鍛えられましたね。さっきのメトロノームあるじゃないですか。あれで練習してたら今度は電池のやつ買ってきて(笑)。終わるわけないじゃないですか。みんな血だらけで練習してました。
でも、あの時一番鍛えられたし音楽理論も覚えましたね。短三度とかサブドミナントとか。いやでしたけど、今思うともっとちゃんとまじめにやっとけば良かったなって思いますね。
──(ティアック加茂)テレビでは義太夫さんはギターの印象があったんですけど、生で初めてドラム叩かれてるの拝見した時に「義太夫さん、ドラムめっちゃ、うまい」って思いましたよ。
ありがとうございます。
──そんなおそろしい基礎特訓があったからなんですね。
それで、1年目の夏休みでようやくバンド組むことが許されるんですよ。ただこれがまた恐ろしくて、一回バンド組んだら解散できないんですよ。
──厳しいですね。
だからよっぽどよく話し合わないといけないんで、合宿の間、寝ないでミーティングやらされるんですよ。ただねぇ、ドラムが足りないとか、なるじゃないですか。
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