あのビートたけし「浅草キッド」はカセットMTRから生まれた!
多重録音の歴史と共に歩んだミュージシャン「グレート義太夫」インタビュー
多重録音の歴史と共に歩んだミュージシャン「グレート義太夫」インタビュー
2017/10/06
じゃないんですよ。転向するしかないんですよ。
──14人でしたよね。
なんで、ロックバンドが2つとフォークグループが2つでしたね。後で話を聞くと毎年そんな感じらしんですよね。おかげでそいつらとは今でも付き合いがありますね。
──じゃあ、そこから4年間はそのバンド一筋で。
えぇ、ずっとドラム叩いてましたね。最初にコピーした曲は"デトロイト・ロック・シティ"でしたね。なんであんな曲やってたんだろうって思いますけど、でも他にも"ウィッシュボーン・アッシュ"とかもやってましたね。
そのバンドも4年間もやってるとプロになりたいってのがどっかあるじゃないですか。だけど、同じバンドのメンバーは就職しちゃうとかなるわけですよ。それで、となりのバンドのギターを入れて4人でちょろちょろとライブ活動を始めるんですよ。当時吉祥寺に出来たばかりのシルバーエレファント、いまは老舗ですけどそこにデモテープ送ってオーディション受けて出演したこともあります。
──その後、卒業、就職となるわけですか。
それでプロになれると勘違いするわけですよ。就職もしないで色々なオーディション受けるんですが、自慢じゃないですけど後で審査員の人が来て「君だけ来ない?」みたいなお誘いが来るんですけど、当時は血気盛んなんで「バンドじゃなきゃ嫌です!」って断っちゃうんですね。ほんと断んなきゃ良かったって思うんですけど。
そんな話がいくつかあったんですが、結局その1年後にはバンドが解散するんですね。音楽性の違いとかで。そこから一人でいろいろなバンドを渡り歩くことになるんですね。ドラム募集のビラ見てはスタジオ行ったりして。
そこである時、たけしさんのオールナイトニッポンで「うちの"足立区バンド"ってあるんだけどへたくそなんだよ。バンドのサウンドを新しくしたいんだよな」ってしゃべってるの聞いたんですよ。
──オールナイトニッポンがきっかけだったんですか。
そうなんです。それでなんのコネもツテも無いのに、自分がドラム叩いたやつをテープに入れて、当時たけしさんが四谷の三角球場や神宮で草野球やられてるのを見に行ってたんです。
──そこで、渡そうと。
何試合か観に行ってるうちに、結構有名になってきたんです。見た目汚いし。"今日もあいつ来てる"みたいな。"あいつ絶対俺のこと刺しにきたから近づいてきたらバットで殴れ"みたいなことをタカさんやダンカンさんに言ってたらしいんですけど。
で、それを掻い潜って「殿、ちょっとこれ聴いて下さい」ってテープ渡したんですよ。そしたら1週間ぐらいして本人から電話がかかって来たんですよ。日曜の朝8時ぐらいでしたかね。お母ちゃんから「北野さんって人から電話だよ」って。北野っていうと中学の体育の先生しか知り合いいなかったんですけど、電話出てみたら「たけしですけど」って言われて。「みんなで聴いたら良いって言うから、今度練習あるからおいで」って言われて、当時河和田町にあったフジテレビ下商店街の近くにスタジオがあって、そこで初めて参加させてもらいましたね。バンドのリハーサルに。
──それでメンバーに?
でもやっぱり、あれだけの方が動くとなると、それなりのプロジェクトなわけで、どこの馬の骨ともわからないやつにドラムなんかやらせてもらえるわけは無くて、ほとんどメンバー決まってたんですよ。なんで、その後リハとか練習とか呼ばれるわけもなかったんですけど、ある時、中野サンプラザで葛城ユキさんとたけしさんのジョイントコンサートがあって、たけしさんから「遊びにおいで」って言われて行ったんですね。そしてマネージャーの菊地さんって方と楽屋へ挨拶に行ったんです。
もう自分的にはクビになったと思ってるから、楽屋になんか入れるとは思ってなかったんですけど、急にたけしさんが「あんちゃんはあれか?俺が歌えそうな曲とかないの?」って言うわけです。無いですよそれは急に言われたって。だけど「あります!」って嘘言って(笑)ここで無いって言ったらもう終わりだろうなと思ったんで。
そしたら「じゃぁ、今度曲とかいろいろ聴く機会があるから、その時また持ってきてよ」って言われたんですね。確か3、4日しかなかったんですけど、その時に「バラード」っていう曲を作って持って行ったんですね。そしたら「いいねぇ、あんちゃんはあれかい、ドラマー?パーカッションとか出来るの?」って言われて、やったこともなかったんですけど「あります」と。二度目のウソですね。「じゃあ、あれだうちのバンド、パーカッションで入りなっ」て言われて、次のコンサートからパーカッションで参加させてもらったんですよ。
で、まぁギターも弾けたもんですから重宝がられまして、たけしさんがちょっと鼻歌で歌ったメロディにコード付けたりとかしてたんですね。で、その頃ですよ、「夜叉」って映画の撮影で地方行くときに「お前今度"ボーヤ"で来い。向こうで曲作るから」って言われて、そのホテルで夜作ったのが「浅草キッド」なんですよ。
──へぇ〜あの名曲ですよね。
作るからって行ったんですけど、実際にはたけしさんの頭の中ではほぼ出来てたみたいで、鼻歌歌いながら歌詞書いて「ここどうだ?」「ここはこの方が順番良いかも知れません」みたいな感じで進んで行ったんです。ただ一番のチョンボは、テープレコーダー持ってくの忘れたんですね。だからもう一生懸命譜面書いて、それで東京帰ってすぐデモテープ作ってビクターへ持って行って、再アレンジしていただいて。そしたら、イントロのギターは吉川忠英先生に弾いていただいて。
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